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​< ながれ Ⅱ >

 信夫は妻の美枝子が帰って来たと思った。車の音がして扉が開いた。
 「だたいま。遅くなりました」
 大きな鞄を重たそうに提げて美枝子は部屋に入って来た。九時を過ぎていた。信夫はビールを飲みながら美枝子を迎えた。美枝子は疲れた顔をしていた。
 「あなた、ご飯は」
 「宏彰と済ませた」
 美枝子は保険会社の外交を仕事にしていた。毎晩帰りは遅い方だった。信夫は賛成しなかったが、窮している家計とこれからの教育費の嵩む息子の宏彰のことを考えると働かないわけにはゆかないと美枝子は譲らなかった。定時に帰宅できる職業を信夫は提案したが、美枝子は自分の能力を眠らせておいて固定給に甘んじることは我慢ならないと言った。努力とその成果によって増収につながる業種に美枝子は固執した。
 着替えると美恵子は台所へ立って行った。暫くして手に持った膳を信夫の前に置くと遅い夕食を始めた。
 「契約は無事に運んだのかい」
 「一つは押さえることができたわ。保険は投資と同じ。生命と交換に親が子供に残すことができる立派な財産なんです」
 「成程ね。お前の話術が功を奏したという訳だ」
 「変な言い方をしないで。全て本人の納得の上です。私の毎日の努力の結果よ」
 美枝子は家族の生活に関する信夫の言い分は全て認めていた。そうしておいて毎日仕事に出かけて行った。美枝子は信夫と意見が合わない時には、極力不快な口論を避けようと心掛けたが、反面その行動は筋を通して潔癖を極める時があった。買い物はスーパーの閉店前を選んで行き、風呂の水は朝のうちに張っておく。大根、人参、ごぼうの皮は捨てずにおいてきんぴらにした。そんな美枝子に信夫は自分の仕事の充分でないのを衝かれることを恐れたが、美枝子は一度もそれに触れたことは無かった。遠くを見るような目で、二人で力を合わせれば立派な家庭が築けるわ、頑張りましょうと言った。自分の置かれた境遇を甘受するかの様に聞こえた。信夫はその言葉に頷かない訳にはゆかなかった。夫として胸の中が淋しくなるのを覚えた。
 「今日はいい写真が撮れましたか」
 美枝子は頬を膨らませて頻りと箸を動かした。
 「式場の方は全部で五組だった」
 「そう。忙しかったのね。大安かしら」
 「来週からは選挙のための撮影が始まるからもっと忙しくなる予定だ」
 信夫は三十八歳になった。商店街に写真館を開業して十二年になる。一軒一軒の挨拶回りから始めて自分の足で地域の拡充に努めた。信夫の真摯な努力が仕事量の増加へと繋がって来た。二つの結婚式場と専属契約を結ぶこともできた。奉仕的に参加することで市の商工会議所からも有意義な情報や仕事への足掛かりを得ていた。また葬儀に使用する遺影の依頼も全て優先して信夫が仕上げた。推奨して呉れる人がいて今回初めて選挙管理委員会より立候補者の写真撮影の委嘱を頂戴することができた。
 「お父さんは如何ですか」
 美枝子は入院している信夫の父の容態を少し冷やかに尋ねた。信夫は頬杖をついたまま静かな瞳を美枝子に向けた。
 「相変わらず小康状態が続いている」
 「そう」
 「この前も行ってきたんだ。お前も時には顔を見せてやれば喜ぶかも知れないよ」
 「私が行っても仕方ないわ。もうそれ以上良くなる訳ではないんでしょう」
 「それはそうだが。お前にしてみれば姉さんへの手前もあるし、何もしないと言うのは良くないんじゃないのかな」
 「どういうこと。私はお父さんから何も戴いてないわ。お姉さんがお世話するのは当然のことでしょう」
 信夫は嫂への気遣いからそう言って見たが美枝子は少し険しい顔をして答えた。
 「それはそうだが、しかし世間の慣いというものもあるだろう」
 「あなたはお姉さんに気が引けるの」
 美枝子は信夫を見て言った。
 「そんなことは無いが」
 「それならいいじゃない。あなたがこの仕事を始める時だって、銀行からの融資にお父さんのお世話には​ならなかったわ。それにこの小さな家だって私達だけのお金で購入したのよ」
 「そうだ」
 「それとも私が到らない嫁なのかしら。お姉さんに何か言われたの」
 「いや何も。言う訳ないさ」
 信夫はビールを飲むと俯いた。
 三日前に信夫は父を見舞った。父は静かに横になっていた。夜になると父は家に帰ると言って病院の中を歩いた。看護婦が毎晩言って聞かせたが、夜中に行って見ると父はベッドに居なかった。暗いロビーに父は疲れたように座っていた。看護婦に手を引かれて長い廊下を戻って行くのだった。
 「お父さんは今でも歩くんですか」
 「兄や私が面会した夜は歩くらしい」
 「やっぱり家が恋しいのね。一人で居る病院の夜は淋しいのよ」
 「今度、宏彰を連れて行って見るといい」
 信夫は美枝子を見て言った。美枝子は答えずに箸を動かした。信夫は台所に立って行くとコップを取り、ビールを注いで美枝子の前に置いた。
 「もしお父さんが亡くなった時は、あの家でお葬式をするのかしら」
 「そうだろうね。あんな家でも、今は全て業者が執り行ってくれるから心配はいらない」
 美枝子は、手にしたビールの泡を暫く見ていた。それから、ゆっくりと飲み干した。
 「保険には入っているんでしょう」
 「だろうね」
 「だろうねって、受け取り人のことだってあるでしょう」
 「兄だろう。だけど誰だっていいんだ。大きな額じゃないよ。指定が無ければ民法通りさ」
 「民法通り」
 「等分ということさ。全ての財産をお金に換算して等分に相続するという事になる」
 「どのくらい」
 食器を重ねながら美枝子は訊いた。
 「控除額では納まらないだろうね。多少の納税はある筈だ。土地が少しあるからね」
 「控除額っていくら」
 「四千万」
 美枝子は膳を持ったまま沈黙した。そうして信夫の顔を見ていた。
 「あなたも貰えるの、そのお金」
 美枝子は感情を抑えて無表情に尋ねた。
 「全てお金とは限らない」
 美枝子は、更に何か言い出そうとして躊躇っていたが、黙って台所に行った。それからお湯に入ると告げて浴室に消えた。
 信夫の写真館の仕事と並行して自分の個人的な写真撮影にも時間を割いた。将来は写真家として生きる道を胸に秘めていた。自信作を広告代理店へ持ち込んでみた。雑誌やポスターに採用できそうな作品を鞄に入れて会社を訪問して歩いた。しかし良い返事をもらうことは無かった。
 閉店後の銀行の裏口から信夫は店内へ入って行った。奥から現れた店長代理に前回の礼を丁寧に言うと、テーブルの上に作品を一枚ずつ提示した。信夫は何度も懇願することで、幾つかの店舗や公的機関を自分の作品の発表の場として与えて貰った。勿論、それは写真館の仕事の延長であり、作品は売り物であって当然代金を請求した。信夫との仕事の付き合いで、それを承諾して呉れた店主がほとんどであった。
 店主代理は色々と見比べた末に信夫に意見を求め、緑の木立ちを望遠に納めた作品に決めた。信夫は丁寧に礼を述べると五万円の伝票を切り、裏口から退いた。
 数日して信夫は美枝子といっしょに父を見舞った。仕事を早く切り上げたので病院へ行きたい、と急な電話を美枝子が入れて来たのだった。信夫は咎めたが同意した。
 二人を見ると父は僅かに顎を引いて瞳を向けた。信夫は父の意識が明瞭なことを確認すると椅子に腰を下ろした。今は静かに落ち着いている父を見ると、肺炎から危篤状態に陥ったあの緊迫した一夜が別世界の事のように思われた。携わった医師が危篤を告げたが、父はその後、然程の苦痛な様子も見せずに意識を戻したのだった。
 「お父さん、美枝子です。具合は如何ですか。辛くありませんか」
 美枝子は父に寄り添うようにして優しく話しかけた。父はそれに答えるように小さく唇を動かした。虚ろな瞳は、美枝子の挙動を緩慢に追っていた。美枝子は父の布団の中に手を入れると寝巻きの縒れを直し、襟を綺麗に合わせた。買ってきた花を花瓶に生けると枕元に飾った。ベッドの下を覗き食器や衣類を整理すると芥塵を捨てに出て行った。信夫はそばに座って黙ってそれを見ていた。父の瞳には何か当ての無い期待のようなものが浮かんでいた。
 何時軍歌のテープをラジカセに入れて小さく流してやったことがある。『戦友』の歌が流れ出た。父は顔を顰めた。声の出ない鳴咽である。辛い軍隊の記憶が悲哀と共に老いた心を震わすのだった。
 CTスキャナによる脳の断層写真を見ると、周りから白い部分が広がっていて脳全体が委縮していた。老人性痴呆症の徴候が見えていると医師は説明した。
 看護婦が入ってきて流動食を入れた瓶をベッドの脇に高く吊るすと食事の用意を始めた。長い管を瓶の底につなぎコックを回す。それを見ていて美枝子が信夫の横に腰を下ろした。
 「いつもあんな風にして食事を取るのね。何だか味気無さそうで可哀想」
 美枝子は頬を寄せると声を低めて囁いた。
 「食べさせてあげればいいのにね」
 「咳込んでうまく飲み込めないんだ」
 「少しずつでも口に入れて上げれば食べられるんじゃない。その方が美味しいし栄養にもなって元気が出るのに」
 「お前が食べさせてやればいい」
 「いやよ」
 美枝子は咄嗟に強く否定したそして身を引く様に座り直した。父は瞳を動かしながら会話を聞いていた。全て理解しているのだった。
 一時すると流動食は全て父の胃の中に流れ込んでしまった。看護婦が手際よく後片付けをしていった。
 信夫は美枝子を促すと腰を上げた。
 「それではお父さん、また参りますからね。元気で頑張ってくださいね」
 美枝子は父の手を握った。長い廊下を歩いて二人は病院を出た。
 帰りの車の中で美枝子は兄の家に寄りたいと言った。途中で洋菓子の折を一つ包んでもらった。畑の中を暫く走ると家の前に着いた。
 夕食時であったが、兄夫婦は快く二人を迎え入れた。横に座った美枝子は久しくご無沙汰をしていますと菓子折りを差し出した。
 「いつもお姉さんばかりにお父さんの御世話をさせてしまって誠に申し訳ございません。今日は主人と病院の方へ行って参りました。お父さんはお元気のご様子でした」
 美枝子は兄夫婦の前に深く頭を下げた。嫂はちょうど良い所だからいっしょに夕食を上がっていって下さい、と直ぐに膳を用意した。兄は酒杯を信夫に与え、それから美枝子にも奨めて箸を取らせた。
 「一度は危うかった命ですから、今は御負けのようなものですよ」
 「それはそうでしょうが、少しでも長生きして頂くに良い事はありませんわ」
 美枝子は野菜の煮物が美味しいと言って嫂の料理を褒めた。開け放たれた縁側から畑の青い作物が夜の光の中に見えた。
 「この野菜はみんなお兄さんがお作りになったんですか」
 「日曜農業ですよ」
 「野菜も買うとなると高くて馬鹿になりませんものね」
 美枝子は舌鼓を打つと満足そうに笑みを浮かべた。そうして兄の顔を見ると、
 「お父さんの生命保険は如何程なんですか」
 と頓着なく口に出して言った。信夫は直ぐにそれを注意した。嫂の顔を見て、それから兄の杯に酒を満たした。
 煮物の湯気が静かに揺らいでいた。
 信夫は厭な思いをした。美枝子を連れての父の見舞いやこの訪問が何か打算的な意図の下に為されたと解されたに違いない。また父の遺産に対する民法上の権利の主張が正当であるにせよ、何か浅薄で心の貧しさを露呈したようで居心地が悪かった。信夫は美枝子の言葉を不作法だと思ったが、彼女にそんな言葉を吐かせたのは自分の生活的非力さが原因していることを知って、抜け出すに抜け出せない人間の小さな運命の枠組みのようなものを感じ、美枝子本人を批難する気にはなれなかった。
 帰る時に宏彰君へと言って嫂が西瓜を美枝子に持たせた。それから彼女は外まで出て来ると車の後ろから会釈をして見えなくなるまで信夫たちを見送っていた。
 澄んだ月が夏の夜空に浮かんでいた。
 翌日、朝靄の中を信夫は機材を載せて車を走らせた。役所の発行する冊子に載せる写真を取るためである。水資源の確保と自然保護を訴える数ページのパンフレットである。車は深い谷を下に見ながら進んだ。大きなカーブの手前で車を止めると信夫は谷を覗いた。谷は岩肌を見せてそそり立っていた。それは気の遠くなる程の時間をかけて急流が刻んだものだった。父の命の何千倍もの時間の流れであった。
 暫くすると朝日が山の尾根に輝き始めた。そうしてその光が次第に深い谷の奥を明るく照らした。すると青葉の上の朝露が一斉に星の様にきらめいて谷底へ向かって落ちていった。
 ハンドルを握ると信夫は力強く車を発進させた。
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