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< な が れ >

 男は庭に椅子を持ち出して坐っていた。大きな枝が夏の太陽を遮って木陰を作っていた。川から涼しい風が吹き上げて木の葉を鳴らしていた。彼はさっきからじっと座ったままだった。投げ出した足に蟻が登っていた。それを見ていた。半ズボンの上まで登ってきたら指で撥ねてやろうと考えていた。蟻はなかなか登って来ない。脛毛が邪魔になって思うように進めないでいる。彼は足を一揺りした。蟻は落ちた。
 庭の向こうで洗濯物が揺れていた。白い物は眩しく光るようだった。どれもすっかり乾いていた。一人の老婆が家の中から出て来て、彼と少し離れて座った。彼女は物置小屋から外用の粗末な腰掛を手に持って来た。彼女は少し前かがみに両手を膝に置いて、風に向かって座った。男はそれを目だけで見ていた。
 風は、ひっきりなしに木の葉を鳴らした。枝の間から漏れた光が地面の上でチラチラ揺れていた。夏の太陽は、真上をちょっと過ぎたところだった。時々、上の方で太い枝と枝の擦れる音がした。
 「ここは涼しくて、とってもいい気持ちだねェ」しばらく風に当たってから老婆が独り言のように言った。彼は黙っていた。
 「こんないい所はあるもんじゃないよ。なんて言ったって、この風がいいよ。川風だからひんやりしてとってもいい気持ちだよ。こんないい天気の日は、またなおさらだね。これじゃ洗濯物がよく乾くよ、あれは何より風が一番だからね」
 「うん」彼はそう言っただけだった。そうかも知れないと思った。また蟻が上がって来た。彼はそれを見ていた。
 「冬はきっと寒いよ」彼は言った。
 「だけど夏に蒸し風呂みたいになるよりはましだよ。どこかで得しりゃ、どこかで損する、まったく自然はうまくできてるってもんさ。それにしても、この木はどうだね、立派なものだ」。老婆は、目の前の大きな欅の木を見上げた。
 「こんな木のある庭は、そうどこにでもとはいかないよ。本当に人を寄せつけないって感じだね。たいしたもんだ。木とは言え頼り甲斐がある。でも、もうこれ以上は大きくはならないね」何の気兼ねも無く、口達者に喋る老婆である。
 「そうだね」彼は蟻を見ていた。今度は大きい奴だった。これは、向こうの大きな樅の木から来た奴だった。こいつに食いつかれるとかなり痛い。
 「まったく歳をとったら自然に逆らってはいけないね」老婆は、また話し出した。男は黙っていた。
 「いっしょに合わせなくちゃ、その方が利口ってもんだよ。ここはいいよ、都会は御免だね、下がコンクリートじゃあ照り返してしょうがないし、風が無いときているから、まるで蒸し風呂だね、あれは」
 
 彼は蟻を見ていた。
 「冬は冬で埃っぽいし、喉がいがらっぽくなって、風邪などひいた時は余計いけない。どっちみち歳寄りにはいけない」
 今度は上まで登って来た。大きな奴だった。蟻は半ズボンの上まで来た。彼は人さし指を折ると、蟻の来る方へ置いて構えた。そして、すばやく弾いた。
 男は座り直し、足を組んだ。そして、組んだ方の足の爪先を動かしてサンダルを落とそうとした。落ちそうでなかなか落ちなかった。男は少しむきになって、いやな思いをした。風が足裏に当たってとてもいい気持がした。男は足首を握り、くるぶしの下の突き出た骨を押してみた。もう痛くなかった。昔学生の頃、よく捻挫をした所だった。練習の時は、常に注意してやった。それでも捻挫をした。繰り返しするうちに、無性に腹が立つようになった。またか、と自分の情け無さに腹を立てた。今でも、一つ一つの場面をよく覚えていた。一番酷かったのが、あの夏の練習の時、傍らで女の子が見ていた、跳び降りた時にやった、酷かった、ボキッと音がした。自分の愚かしさに大変腹が立った。レントゲンを撮った、それから石膏で堅めて松葉杖を突かねばならなかった。医者に見せたのは、その一度だけだった。
 「婆さんは丈夫そうだね。健康には気を付けなくてはいけないよ」男は、大きく息をするとそう言った。
 「あたしは生まれてからこの歳になるまで、これと言う大きいのはしたことがないね」老婆は、さっき腰掛けたままの格好でそう言った。彼女の長いスカートの裾が風に揺れていた。
 「身体には規則正しいのがいいんだよ。ただ、無理はいけないね。あれは本当に良くないよ、その時は平気でもいつかきっとどこかに出てくるんだよ、まったく」
 「婆さんも無理しちゃいけないよ」
 「そうだねェ」彼女は、今度は風に背を向けると、腰を伸ばして座った。
 「それでもいくらかはしなくちゃ、これで何も、全然しないっていうのも、かえって良くないんだよ。あたしはこうしてやって来たんだから、こうしてるのが一番身体に合うんだね」
 老婆は、向こうの風に揺れている洗濯物を見ていた。そして、もう乾いたようだ、この風じゃ早いもんだと口に出して言った。それからまた何か喋り出した。彼は頭を後ろへ倒して目を閉じた。
 「洗濯は朝やるに限るね、女の一番の仕事だね、洗って干したものが風に揺れているのを見るものはいいもんだ、何十年とやって来ながら、この気持はどういうものだか変わらないね」
 老婆は、太くたくましい腕を交互に擦った。それから、軽く揉み上げるようにした。
 「ところで、時々あんたの本箱から借りているんだけど・・・」と彼女は男の方を向いて言った。男が目を閉じているので少し黙ったいた。男は聞こえていた。何か言おうと思った。
 「知っている」とだけ言った。
 「それがもう、少し読むと涙が出てくる始末だよ。昔のようにはいかないね、これでもあたしは若い時には、恋愛ものを一生懸命に読んだものです。あんたは、そういうものをあまり読まないようだね。いや、若い時は読んだかも知れないね、きっと」老婆は、陽気に探るような目をして見せた。
 男は、目を閉じて風の音を聞いていた。自分は月並みにやって来た。どの男もするように同じことをやって来た。女性との事だってそうだった。若い頃は適当に楽しくやっていた。話しかける口実を作るために、懸命になったこともあった。大体みんなうまくいった。でも全て遊びだった。本心でなんか決してなかった。特定の女性を持ちたいとは思わなかった。本当に好きなのかどうか、実際女の子を必要としているのがどうか解らなかった。そうする事に、自分はまだ決心を下せなかった。はっきり言って、ついて行けなかった。自分は、無理矢理に女性の中に入って行ける方ではなかった。少しでも思う気持ちの働いている時は、かえって行動に出ることができず、ずっと後へ後へと延ばしていった。本気になるのが嫌だった、行為の結果が実に厭だった。そして、その思う気持ちも結局は信じていなかった。信じようとしなかったのかも知れない。何よりもすべての行動における自分の中の嘘が厭だった。これを感じるのがとてもたまらなかった。これが、行動や考えを途中で宙ぶらりんにさせた。いつもこの嘘と闘っていた。闘っている自分は嘘ではないと考えていた。でもやっぱりそれも嘘だった。二重の意味でみんな嘘だった。もうこれ以上嘘をつきたくなかった。
 自分のやり方はよく知っていた。自分の行動しだいで物事がどうなるか前もって知っていながら動き出さない自分、そしてさらに、そういう自分をもう一歩うしろにいて、他人のようにつき離してしまおうとする。大事な時はいつもそうしてきた。自分と生活との間にある嘘が、すべてそうさせてきたことだ。嘘の生活の中の一体どこに語るべき真実があろう。自分も信じていない言葉に何の力があろう。結局、始めからいけなかったのだ。どこか解らないけど、始めから嘘だったんだ。いや始めなんてありはしない、どこにも始まりなんて捜せはしないんだ、いっその事、ただそれだけだったんだと認めてしまえばいいのだ。始めから何も目を見張るような事は、ありはしなかったのだ。
 風の音が耳に入って来た。いかにも涼しそうに木の葉が揺れていた。太陽は輝き、空は青く抜けていた。夏は昔から好きだった。暑ければ暑いほど好きだった。夏は焼けるほど暑ければいいと思った。
 男は不意に言った。言おうと思った訳ではなかった。かってに口が動いた。言ったことに後悔はなかった。もう何も考えたくなかった。
 「婆さん、旦那さんとは」
 老婆はもう動こうとしていた。男の言った言葉のあとを考えるように、微笑みを浮かべながら、また座り直した。そして、腕を身体の前に交差すると、思い出すように話し出した。
 「あたしの夫は、もう昔にいなくなったけど、生前はうまく行かない時は度々だったし、そういう事に一つ一つ始末を付けるなんて事はもちろんしなかったし、ちょっとした気持ちの行き違いは、そのまま放って置かれ、生活の中の些事として忘れ去られるより仕方なかったのね。それに実際、そういうことを気持の表面でのさざ波以上のものとして発展させることが許されてなかったし、互いにそれはよく心得ていて最後の一波だけは、暗黙のうちに避けていたようだったね。思いの合わないのは当然で、片方が融通を利かせばそれで済むのに、それができないんだね。元々お互い二人同士のことで、どちらの損得というのではないのに、決まって割れてみる。そして、むしろ自由があるのは男のほうで、先に死んで行くから、女は後で慰められもし、諦めもつき、静かになれる。後になってあれこれと思うのは、いかにも勝手というものだけれど、人間死んでしまえば儚いもので、生きていた生前は、子供の戯れのようにしか思い出せなくなる」。
 老婆は、一息に話した。ずっ静かに自分の声で、逞しい腕の下から押し出すように、そして、その歳によってよく練られた思考の裏付けをその声の下に忍ばせて。さらに老婆は、ずっと声を落としていった。
 「あんたも、よく一生懸命に働いているようだけど、一時逃れのために、忘れるためにそうむきに働くのはどうかと思いますよ、早くよりを戻して、お嬢さんも可愛い年頃でしょうに・・・」老婆は笑った。
 風の音があたりを囲んだ。夏の太陽はさらに輝きを増して進んだ。老婆は静かに立つと、腰掛けを持って歩き出した。男は顔を上げなかった。女は昼食のことを付け加えると、家の中に消えていった。
 男はしばらくしてから腰を上げると、風に向かって立った。遠く下に川が見えた。そこで子供の頃、毎日水浴びをした。あれから長い時が流れた。やっぱり自分は変わっていないように思えた。昔の糸は、ずっと切れずにつながっていた。自分は初めから一人だった。友を必要とした時など一度もなかった。それは真実だった。今でも一人だった。もう誰も愛してなんかいないんだ。初めから誰も愛することなどできなかったんだ。それは初めから解っていた事だ。男は、自分の生活を煩雑にするものからは、注意深く避けてきた。だから、感動するものには、極力気を使ってきたし、それゆえ嘘もつくことになった。しかし、そうしなかったとしても、果たしてそれが本当の自分の真実かどうか、解らなかった。今はもう何も考えたくなかった。静かに過ぎていってくれることを思っていた。
 食事が済んだら、川へ降りて行ってみようと思った。
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