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更新日 2017年2月2日
ヨースケの世界
山本健彦
< つる吉の一日 >
つる吉は目をあけた。夏の朝だった。戸のすき間から白い光が差し込んでいる。鳥の声もきこえる。
しばらくしてつる吉は起きあがった。縁側へ出ると戸をあけた。ふとんを上げて外へ出た。庭のすみにある水道をいっぱいにあけると頭から水をかぶって顔を洗った。
つる吉は老人である。
ぼうず頭の健康な老人だった。
つる吉の家は村から山の方へ少しのぼった所にあった。村のどのいえより高い所にあった。村じゅうが見渡せた。
つる吉の向かいの山は立派な杉山だった。その山から今太陽がのぼろうとしていた。つる吉はあれを知っていた。最初の光が差し込んだ時、いつも心が一瞬喜びに染まるのを。
植え木に水をやると家にはいった。ラジオを付けて天気予報をきく。湯をわかしでお茶を入れる。何も考えずに一杯のむ。つる吉は新聞を取っていない。字が読めない。
今日は快晴。つる吉はよしっと思った。今日で終えてしまおう。暑い日の下での仕事は楽じゃない。思ったより手まどった。としかもしれないが、今日でおしまいだ。つる吉はそう決めた。
つる吉は歯が無い。だからおじやをたく。みそ汁をわかしてご飯を食べる。つる吉はゆっくり食べる。それでもよくこぼした。それを猫がひざにのぼって食べた。
それから老人は毎朝粉ミルクを一杯飲む。今日は下の店できのう買った新しい缶を開けた。
つる吉は長ぐつをはくと外へ出た。かごに鎌と軍手と鍬を入れると背にしょった。むぎわら帽子をかぶり腰には手ぬぐいを下げた。
細い道を下りてゆく。朝つゆがいっぱいだ。店の横を通り抜けて大通りへ出る。朝一番のバスがつる吉を追いこした。昔、つる吉はこのバスで町へ出、電車に乗って東京は上野まで品物を仕入れに出かけた。昼前に注文の品、日用雑貨、乾物、魚を安く選んで買い入れ、隣村まで帰ってくると、そこで商いをした。品物が全てはけると、その金を元に上野までもどった。二度目には帰りのバスがなかった。つる吉は荷を背負って峠をこした。夜道は長かった。おおいかぶさるような森の中から猿と猪が後をつけた。つる吉は一人足を早めた。
青い空に朝日が走った。つる吉は橋の上で立ちどまりしばらく流れを見つめた。黒い影が走る。鱒だ。餌をあさって神経質に動いている。なわばりを離れることはない。まだ若僧だな。俺が釣りそこねた奴ではなかった。ねばったあげく五番線を切って逃げやがった。あんな奴はもうこの河には居ねえ。つる吉は目を細めると下流の深みを見た。唾を吐くと歩き出した。
橋を渡り終えると助じいに会った。
「今日も暑くなるぞ」つる吉が言った。
「ふんとだなあ」
助じいは役場の清掃夫だった。五年前この話がつる吉の所へも来たが、彼は断った。自分には向かぬ、役所務めの拘束は嫌だったのだった。
「どこだね」
「高見」
「ほう」
つる吉がどこの家の何の仕事をしているか助じいは合点した。
大通りを通勤の車が突っ走ってゆく。若い者は全て町へ出て行く。村には何の仕事も無かった。つる吉は通りをそれて河伝いに歩いた。しばらく行って大きな欅の根元で放尿した。
去年の冬、仕事をしていてそのまま倒れた。なぜあんな事になったのだろう。俺ももう危ねえのか。そう言えば信やあがいっちまったのは庭木を伐っていてのことだ。家の者が気付いた時にはもう息がなかった。ありゃあ飲みすぎだ。酒はもうやべえな。
栗畑には夏草が青々としげっていた。つる吉は唾を吐くと鎌をといだ。手ぬぐいを締めると苅り始めた。石を逃げるために刃先を少し上に浮かせる。茎を切る手応えが快く伝わってくる。木陰のいら草は慎重に処理した。痛みが残るからだ。汗が浮いてきた。
つる吉は重ねてあった枯枝の束を持ちあげた。下に居た青い物がにぶく動いた。
「おっ」
静かに鎌の背で首を抑え付けると、頭をつかんだ。枝を又にさくと、そこにはさみ込み手ぬぐいで縛った。かまれたら命を左右する。子供なら危険だ。
太陽はつる吉の背を焼いた。老人は淡々と苅り続ける。休むことは禁物だ。ねばり強く続けることが終わりを呼ぶのだ。心にすきを与えないこと。大粒の汗が目に流れ、ほほを伝わりあごから落ちる。鎌にと石をかけては苅り続けた。
昼までに半分終えた。
つる吉は橋の食堂で昼を取る。
「青匂いにおいがしたぁだ」
「やっぱり」
「ん、まむしは殊にそうだ」
「焼酎漬けか」
「ありゃあ何にでも効くぞ」
「そうだってな」
食堂には入れ替わり人が立ち寄った。一服して店を出ると、つる吉は鱒のようすをのぞいた。青年が横に来ていっしょにのぞいた。
「草苅りお世話さま」
「休みか」
「ええ。何です」
「鱒よ」
「どこ」
「あの岩が持ち場だ」
「いないね」
「昼は出てこねえ」
「昔はどうでした」
「あの岩崩れの下だったな」
つる吉はあの事を話した。
「そう。あの岩は崩れたのですか」
「震災の時だ」
「関東大震災」
「おお」
「どんなでした」
「立っちゃ居られなかった」
「それで崩れるのを見たの」
「わらん中で」
「わらの中」
「おっかなかったわい」
「桃の久保は」青年は指さした。
「あれは違う。いい山だよ。昔は雑木よ、俺らが植付けしたぁだ。量平さんの頃よ」
つる吉は青年を置いて歩き出した。
昼前に苅った草はすでにしおれていた。さあっ、何としてでも終わらせなきゃあ。つる吉は鎌をとぐと、再び始めた。弧を描くようにして草を手前に引きよせ、左手で束ねてゆく。ひとかかえの束になるまで草を苅り込む。
村には毎年夏の行楽客が押し寄せた。河原は遊び場となった。
浮き輪を持った親子が通った。
「ママ、蛇」子供が言った。
つる吉はゆっくり目を上げた。子供は腰を曲げてのぞこうとする。
「死んでるね」姉の顔を見ながら手を伸ばすと、青いしっぽをつまんだ。
「ミキ、止めなさい」母が声をかける。
「頭は危ねえぞ」つる吉は歩み寄ると、ふしくれだった指をあげて
「ミキさんとやら、これはまむしだ」
「まむしって」
「誰が捕ったの」姉が言う。
「欲しい」
「かまれりゃあ死んじまうよ」
つる吉は笑った。
太陽が輝いた。汗をふくと腰を入れて再び苅り始めた。鎌を引くたびに声を出す。腕がにぶってくる。つる草は始末に悪い。ぶよが目元を刺す。体は熱くのどはかれる。蜘蛛の糸が顔にからむ。ぶよがひつこく目元をまわる。つるが鎌を取る。苛立ちまぎれに鎌をふった。左指をかすめた。血が草の上に落ちた。つる吉は瞳を上げて遠くをながめた。
「こんつくめ」
日が沈み涼しい風が吹く頃、つる吉は仕事を終えた。軍手を取って腰を下ろすと一服した。血は止まったが痛みは消えない。しかし心は安らかだった。
帰りに畑のすいかを二つかごに入れた。丹精込めただけあって上出来だった。つる吉は快い重味を背にして歩いた。
炭俵を背負った昔を思った。春人より先に山にはいり札を立てる。この山取る。それがこの一年ここで炭を焼く権利の獲得であり、他者への主張だった。
炭は楢炭と相場が決まっていた。検査役から甲をもらうのは楢炭に限った。必ずいい値で売れた。そこで冬のうちに山を歩き目星を付けておき、解禁日と同時に楢を多く含む山に札を立てるのだ。売り値の二分は山の所有者に渡った。
炭焼きたちは煙の色で窯開けの日を決めた。つる吉は誤らなかった。炭は角俵につめて一気に里へ下ろした。男たちは五俵も六俵も背に積み上げた。そして夜山を下りるのだった。里から見ると遠くの山にちょうちんの光が点々と灯り、それがゆっくり移動した。家の女はこの光を見て湯を沸かし膳の支度を始めた。
ある夜仲間の一人が動けなくなった。つる吉は迷ったあげく男の俵を背に加えると歩き出した。それは重かった。帯が肩に食い込み首を絞めた。つる吉は重味に耐えるために尻を締め顎をかみ続けた。翌日、つる吉の快挙が村に広がった。
つる吉は、草苅りの終えたことを報告に寄った。
「やっと終えましたね」縁側に座ると言った。
「ご苦労様でした。暑くて大変でしたでしょう」女が出て来て応えた。
「いい栗になりそうだ」
「今年は当たりのようですね」
つる吉は出された酒を一口飲んだ。冷たいかたまりが喉を落ちてゆく。
「目の上をどうしました」
「ぶよ」
皿のふきを手に取ると口に放り込む。もぐもぐかみ続けて流し込む。つる吉はすぐに酔った。そして饒舌になり村の事を淡々と話した。
「とうふ屋に猪が出たと」
「またどうして」
「おからの味をしめたらしいだ」
「知ってたのかしら」
「裏の畑を荒らしているうちによ。あれでなかなか利口だぁ」
あれは冬だった。つる吉はとらばさみをかけた。二日後ようすを見に行った。枯葉を踏む音が木立を伝わる。しばらくしてつる吉は足を止めた。音がする。猪だ。かかっている。つる吉は足元を確かめながら谷へ下りた。
雪が降りだした。山は深さをました。
つる吉が近づくと、猪は怯え牙をむき唸った。はさみは前足をかんでいる。肉が切れ血がにじんでいる。一人では無理か、誰か呼ぶか、そうなると明日だ。
腰のなわを解くと、端を口にくわえた。身をかがめくさりをたぐる。猪の形相が変わる。突っかかて来るところを交して、後足を取り、身を預けてねじ伏せた。
なわを使おうとするがうまくゆかない。猪の動きは強く激しかった。抑え付けようとしたつる吉の腿に猪は鋭くはを入れた。つる吉は大声を上げた。
格闘の末、猪は縛られた。つる吉はこれを担ぐと谷を下りた。雪は激しく視界を包んだ。つる吉は勘を頼った。道へ出るはずだ。
猪は時に激しく手足を動かす。つる吉は、膝と腰を岩にすりつけながら体を保ち、そして道を捜した。雪は一寸先を隠した。
すべった拍子に足場をなくし、体が落ちた。あっと思って木の根に頭を入れ肘で堪えたが無理だった。猪は谷へ落ちていった。
「日当は俺も付けてるが、そっちでやってくれろ」
「今まで通りで」
「おお。ふんとうは少し色を付けてえと思ってんだがな」
つる吉は既に一人前ではない。しかし仕事は選ばずに何でも引き受けた。村のどの家からも重宝がられた。季節に応じた仕事が何かしら来るのだった。都合の悪い時はつる吉を頼った。冬の火の番まわり、村林の下苅、つり橋のペンキぬり。吹風沢での採石のための岩の爆破予告の半鐘鳴らし。
仕事を厭がる子供に村の母親は、つる吉さんを見ろと言った。
「もう少しどうぞ」
「たくさん」
つる吉はコップを伏せると腰を上げた。
「ごちそうさん」
「お構い致しません。気を付けて」
「あい」
快い酔いだった。夜風が気持ちよい。しばらく歩いてつる吉はすいかを思い出し、もどって庭のすみにひとつ置いた。
月がのぼろうとしていた。
橋を渡る。坂をのぼって店の横を抜け、ようやく家に辿り着いた。
仕事着を脱ぐと風呂につかった。
おじやに火を入れ、卓を整える。ラジオを付けて箸をとる。猫がすり寄って来る。
「こんつくめ。取りに行くか」
つる吉は蛇を思い出したが、そんな気はもうなかった。指のばんそうこうを目で捜したが、腰は上げない。
あとですいかを食べよう。
そのうち、つる吉は眠くなってごろりと横になった。猫が背伸びをして卓の上をのぞいた。家の中は何も動く物がない。
蛾が一匹飛び込んで来て、電球と遊びはじめた。
地が震え、山が鳴った。そばで青年が遠くを見て立っていた。つる吉は指をにぎってわらの中に居た。杉山から朝日がのぼっていた。
夜はしだいにふけ、村の上に月が浮かんだ。
つる吉の一日は終わった。
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