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< 山の波 >

 信蔵は山の奥へと進んで行った。朝から降り出した雪は夕方になっても止まなかった。山は既に闇に包まれようとしていた。道は雪に被われ西側の草木だけがそれを分からせているだけであった。信蔵は還暦を過ぎて更に正月を数回迎えていた。
​ 尾根を二つ越えて山の北側へ回り込むと雪はさらに深くなった。信蔵は八年前に植林をした杉の林の中へと入って行った。雪の重味で杉は頭を下げ始めていた。これは危ねえ。明日まで持ち応えねえかも知れねえ。信蔵は杉の幹を両手で掴むと力を込めて揺すった。雪が枝から落ちると杉は頭を天に向けて跳ね上げた。喜んで首を振っているようであった。信蔵は自分の背中の重荷が一つ下りたような快さを感じた。足場を確かめて一本また一本と雪を振り落として歩いた。山の北側の斜面は全部で五町歩、植林から八年目の杉が尾根から下へ二町歩、残り三町歩は四十年の森である。全て信蔵が植林に携わり、下草を刈り枝打ちをして世話をしてきた山だった。北側の杉は南側よりも成育が遅く、しかしその分木目が詰まっていて堅くて良い柱が採れた。そして堅い分だけ粘りが無く雪の重味に耐えかねて幹から二つに折れ易かった。三年前の春の大雪の時、仏果沢の山の半分が折れてしまったのを信蔵は見て知っていた。山主の山久が急いで東京から戻ると伝爺を連れて山に入って行った。あれは酷いもんだった。腰を抜かしたに違いねえ。いい山だったので尚更だあ。信蔵は休み無く雪を落とし続けた。直足袋の中の指は感覚が無くなっていた。軍手をした指は幹を握ったまま輪を描いて動かなくなっていた。雪は止まず山は深さを増した。信蔵は闇の中で勘を頼りに林を進んだ。植林は一町歩五千本。毎年木の成育を見ながら間伐をし、下草を刈り林に風を入れて山を整えてゆく。八年の杉は丈十尺、うち半分までは既に枝を落としてある。夜中を過ぎて全ての杉を見終わると信蔵は沢へ入り道を捜すと山を下りた。これで何とか明日まで持つべえ。折れたらその時だ。仕方ねえ。雪空を見上げて信蔵は一応気持ちを落ち着けた。 
 家に帰ると直ぐに風呂を沸かした。冷えた体を温めると酒瓶を自分の横に置いて座った。コップに注いだ酒をゆっくりと一口飲む。快い疲労感が身体を包んでくる。折れたら折れた時の事だ。もう一口飲む。卓の上には何も無い。沢庵があるだけである。まだそんなに重くはあるめえ。信蔵は酒屋で一番の辛口を月に三本注文する。眠気が襲ってくる。コップを空けると明りを消して床に着いた。朝にゃ雪は止んでらあ。そしたらもう一度山を見て、それを高見へ知らせときゃいい。外は寂として何の音もしない。信蔵は一人暮らしである。
 山の春は匂いで分かる。土の匂いである。木々の若芽が萌えいづる以前に熟した土の匂いが辺りに漂う。
「今年は座々利の山を焼かせて貰いてえだ。どうだんべか」
「座々利ですか」
「おお」
「確か数年前に豊作さんが焼いたと思いますが」
「おお、そうだ。豊やあが焼いたあな」
「雑木はどんな具合ですか」
「たんとあらあ。豊やあは沢の東をやったのよ。西側はそのままだ」
「そうですか。窯はどうですか」
「少しは、どうにかすんだようだ」
「今、炭の需要はどうなんですか」
「無くなりはしねえ。これでもあんだぞ。ほれ、料理によっちゃあ料亭でも要るし、バーベキュウなんかもそうだ」
「なる程ね」
 春になると炭焼き達は山に入り、その年の炭を焼くための雑木山を決める。信蔵にとっても炭焼きは年間を通しての大事な現金収入の源であった。炭は楢炭である。信蔵は冬の内に雑木山を歩きその種類を確かめ、今年焼くのは高見の座々利と決めていた。信蔵は山主の一郎に炭を焼くことの承諾を願い出たのである。
「信蔵さん、もう猪が出ましたよ」
「おお、竹の子へかあ。早いもんだ。知ってるからな。薩摩もじゃがも全部掘り起こしちまう。だめだ。そんでも夜毎猪番が出て畑を見回ってた昔を考えらあ、今はいい方だ」
「その頃は、この辺りの山にも猪が沢山生息していたんでしょう」
「そうよ。中村の軒下に何匹も吊りあげた。あの頃の鉄砲撃ちは競って捕ったもんだ」
「その様ですね。写真で見ました」
「桃の久保に棚を作りましたね」
「おお、役場がな。鹿を捕るためだ。俺は言ったあだ、量平さんに。鹿護ったってしょうがねえべえ。杉をみんな食われちまうってな」
「そうですね。若木の被害が多い様ですからね。議長さんのお宅も山をお持ちですから。役場の仕事と自分の山とで板挟みでしょう」
「仕方あんめえ。こけえらの山はみんなそうだからな。それに山久とここの高見ぐれえのもんだがな」
 信蔵は一郎の父に小作として世話になって来た。信蔵もまたそれを頼りに下男の様に全ての仕事に精を出して働いてきた。既に先代は他界し今は一郎の代である。信蔵は一郎を子どもの時からよく知っている。
「今年の雪の被害は少なかった様ですが」
「そうでもねえ。山久の横根はかなり折れた。三十年のが何本もな。この前の仕事に行ったのよ。あれでもう二、三十年すれば一番の山になっただ。もってねえ」
「折れた木はどうなります」
「だめよ。薪ぐれえなもんだ。裂けて折れてるから柱にはならね」
「それでは売れませんね」
「損ばかりだ。だけども、申告すりゃあ森林組合から補助金が貰えんだぞ。高見にも通知が来てねえか」
 山久の横根は六町歩、六十年の杉になったとして四千五百本、一本一・二石と見て五千四百石、今の春相場で石六千円を付けて三千二百四十万、うち利益を二割見込めるかどうか。一郎は心臓に酒を奨めた。信蔵の仕事の確かなことは父から伝え聞いていて知っていた。一郎は信蔵に頼んで山見に同行してもらう。主に山の境を確認することと、黒木の成育を見て造林の方法を細かく教えてもらうことだった。そういう時信蔵の顔は生き生きとして輝き、言葉はその人生で経験した全てのことを裏付けにして縦横無尽に広がった。
「それでは今年一年焼かせてもらいます」
「分かりました。雑木代金は大晦日に」
「約束は違えじ」
信蔵は深く頭を下げると玄関の重い引戸を後ろ手に締めて帰って行った。
 信蔵は朝霧の立ちこめる中、沢を伝わり本流へ下りて行った。昨夜の内に置き鉤を仕掛けて置いたのである。餌の付いた鉤を流れの澱んだ大きな石のそばに沈ませる。糸がピンと張っていれば餌を銜え込んだ証拠である。信蔵は糸の手応えを確かめると流れに足を進めて行った。強く引くとぐいっと引き返してくる。でかいな。切られたらおしまいだ。糸は石の下へ深く引き込まれている。信蔵はゆっくりと水に沈むと糸を手操って体を石の下へ潜らせて行った。左手で糸で引きながら右手の指先を進ませてゆく。糸が激しく左右に振られる。こりゃあよっぽどでかいぞ。前に糸を切った奴かも知れねえ。指先が獲物に触れるや激痛が走った。鰻は激しく指を噛んできた。二度三度と鋭い歯を立ててくる。信蔵は親指を鰻の顎の下に強くあてがい、噛まれた指を口の中に押しいれる。そうして顎をしっかり掴み込んだ。左手も差し入れて頭を握る。腕程もあろうかと思われる鰻を引き摺り出すと信蔵は砂地に跪き、両膝の間に鰻を挟み砂をかけて滑りを殺した。指の傷は深かった。
 山は新緑に包まれてふっくらと丸みを帯びて来た。若葉が風に戦いで地面に洩れた光が揺れて眩しい。信蔵は腕組みをして中を覗いた。炭焼き窯は一部崩れかけていた。丸く積み上げられた石は苔むし、長い間熱に焼かれて脆くなってきている。これは石が要るな。ちょっくらかかるぞ。信蔵は五往復、十個の石を下の河原から運び上げた。汗を拭おうと腰を下ろして一服した。涼しい風が沢から吹き上げてくる。歳だなあ。若い時は何でもなかった。高畑山まで萱を刈りに何度も行った。飛ぶように山を歩いた。疲れなかった。でももう無理は利かねえ。信蔵は咳といっしょに痰を吐いた。指を曲げてみる。
 楢、樫、檪。原木は三尺に伐りそろえる。そして窯の中に立てて二段に敷き詰めてゆく。詰め終わると火を入れて入口は粘土で封をする。煙は後部の煙突から逃がす。この煙の色によって炭焼き達は炭の出来具合を知る。初めは黒い煙が出る。脂を含んだ渋味の強い濃い煙である。それが徐々に薄くなり、次第に青味がかり、更には消えて澄んでゆき、最後に色は無くなり、熱のみを帯びるだけになる。原木はこの過程で燻され炭化してゆき炭となる。この間二十日余りである。そうして窯開けの日となる。
「もうじきかえ」
「おお」
 同じ仲間が通りすがりに信蔵の窯まで登って来た。
「楢かえ」
「全部そうだ」
「値はどうだあ」
「おんなじだんべ」
「二千五、六百まで付くか」
「無理だんべな」
「下がりはしめえ」
「とんでもねえ」
「何俵とれる。二十か」
「あんで、三十はあらあ」
「窯はいくつだ」
「この上にもう一つあるだ」
「六十か」
「そうだな」
「山はどこだ」
「高見よ」
ほお。ここは座々利か。でけえな」
「沢のこっちで十一町歩」
「いいとこを取ったもんだ。今年はたんとへえるな」
信蔵は静かに笑って煙草を銜えた。雑木山の中には窯が幾つか造られてある。その所有は山主にあるが、その年に山に入った炭焼きがその窯を使い修繕も自分がする。炭は角俵に詰めて出荷する。炭は検査員により検品がなされる。原木の種類、焼き具合、太さや形状等を確認して等級が与えられる。信蔵は今年は均して二千円、二窯で五百俵を焼いて百万と踏んでいた。雑木山は一度焼くと次までは二十年は待たねばならない。山主の意向で植林されてしまえばもう炭は焼けない。窯は無用になり炭焼き達は仕事を失う。五十年からの杉の森の中には、今はもう誰も使わなくなって苔むし朽ち果てた窯跡が幾つも残っている。
 信蔵は皆の先頭を登って行った。その後ろに一郎と山久、それに村役場の職員が続いた。
「図面ではどうなっていますか」
「沢が堺であることは確かです」
 一郎は役場の職員が広げる図面を覗きながら山久の言葉に返答した。一郎は父からこの山の境は沢であることを教えられていた。しかし今現地を見るとその沢が二つになっていた。長い年月の間に水の浸食で新たな沢ができていた。どちらの沢を境とするか図面と地形を見ながら言葉が交わされた。一郎の危ぶんだ通り山久は自分の有利な主張をしてきた。
「こちらの沢が堺ではないのかね。この辺りは植林も疎らで雑木も混ざっているのでどちらの沢が堺なのか良く分からない。一郎さんの生まれる前からの境ですから、あなたは何も知らないでしょう」
 山久は一郎に笑い掛け、職員たちにも同意を求めた。職員は袋の中から境界杭を一本取り出して沢へ歩き出した。
「違うぞ、その沢は新しくできた沢だ。図面にある昔からの沢じゃあねえ」
 今まで黙していた信蔵は山久の言葉を強く否定した。
「俺が高見の親父さんと植林をして何遍となく下刈りをしたあだから間違いねえだ」
 村が造林業のために林道を通すという。その用地の買収にあたり地主立会いの元に境界を確定して実測図面を起こすのだ。沢ひとつ違えば買収面積は百坪からの増減になる。坪一万二千円の買収価格として百二十万の損得が生ずる。一郎は信蔵に立会いの同席を願った。信蔵は山久に一歩も譲ろうとはしなかった。
「山の面が違うんだ。素直に山の面を見りゃあ分かることだ」
「それでは一度向こうの山に登って遠方から見てはどうですか。そしたら山の全体が知れて堺も分かるのではないですか」
 役場の職員の一人が提案をした。
 山の境は尾根の沢である。それ以外の境には結び木という木を作った。細い雑木の幹を折れぬように一結びして、これを境の目印として残したのである。また山主が代わったり代が継がれたりすると正しい境は疑わしくなり争いが起こった。
「ああ、分かりますね。やはり左側が本来の沢ですね。一目瞭然です。植林も自然に左へ繋がってます。どうですか」
 職員は沢を指でさしながら山久と一郎に同意を求めた。山久は暫く黙していたが頷いた。信蔵は何も言わなかった。煙草を銜えると後ろに続いて山を下りた。
 窯の前に座って信蔵は遠くの山を見ていた。風が山肌を登っていく。木の葉が一斉に表を返して戦ぐ。それが幾重にも重なる波の様になって山を登っていく。信蔵は今日までこの山の中で生きて来た。自分の所有物は何ひとつ持たなかった。働くことが生きることであった。手と足が山の一部であり畑の一部であった。信蔵はその様に生き、そして年老いた。あの波が大棚沢の方へ回る様になると秋が来る。早いもんだ。
 窯の煙は無色である。窯開けの日は近い。
 
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